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liberteenしゅんすけのブログ

自分の備忘録です。

動画の企画 撮影後の企画

動画の企画を撮影前にどの段階まで具体化するかは日常のコミュニケーションや体験を共有する動画を企画する際の悩みどころのひとつです。


映画やCMなどの制作では動画の中で起こるすべての出来事、すべてのカットが事前に綿密に設計され、その設計どおりに一つひとつのカットを撮影していきます。しかし体験を表現にするタイプの動画では、当然ですがその体験はまだ体験していない出来事でありカメラを回しているその瞬間にまさに体験が生まれるという性質のものです。ジェラート屋に行く動画を撮るからといって事前にジェラートを味見してコメントを考えてから撮影に臨むというのでは、最初の一口を食べた時の体験のきらめきを記録することはできないし、どんなに編集をがんばってもその作品には体験のきらめきを宿すことはできません。ですから撮影前に企画を完全に固めることはできない、というより一定の不確実さというかアドリブ要素を残しておくべきということになります。


さじ加減としては、撮影前の企画段階では自身の期待や想像を企画にするレベルに留めます。ジェラート屋の例で言えば、「たぶんものすごく苦いんだろうからその印象を思いっきり表情と言葉で伝えたい、もしかしたら一口食べて吐き出しちゃうかもしれないけどそこもふくめてバカな自分だからそれも伝えたい」みたいなことかもしれません。しかし、結果的にジェラートが全然苦くなかったとしても、それでよいのです。ある程度予想のつく出来事であっても、なにかしら想定外の出来事が起こるかもしれません。そこに感情の起伏が生まれます。そこに体験が生まれます。撮影の場所では、カメラをもったあなたは目と耳を開いて、感受性の扉を開いて世界と向き合い、そこで起きた出来事や風景とともに体験と感情を撮影します。そうすると結果的に、他の誰かが撮影したものではない動画が生まれ、そこに自分自身の姿がありありと投影されます。そしてひととおり撮影が終わった後、少し時間をおいてからその出来事を振り返り、撮影した素材を客観的に見返すプロセスを丁寧に行うことで、伝えたいことが再構築されて純化されるはずです。泥水をコップにそそいでただ静かに待つことで、ゆっくりと泥と水が分かれてきれいな水が現れてくるように、時間をおくことで客観化されることもあります。このように、アドリブ余地を残しつつ撮影したあとで撮影素材を見ながら伝えたいことを再構築する静かなプロセスが撮影後の企画です。


もちろんそもそも伝えたい事がなく、さらに感受性の扉も開かれずただ漫然と撮影された動画の山をいくら眺めても、あとからは何も伝えたいことは見つかりません。ですからいくら現場が大事といっても、最初に伝えたいことの大枠を決めておくことは重要です。撮影をした結果、伝えたいことの大枠がどうしても描けない場合、その作品は没にしてもよいでしょう。訪れたジェラート屋が閉店していた場合、おばかな自分をさらけ出すのが目的であれば閉じたシャッターの前でべそをかいている自分を作品にすれば良いですが、ジェラートの味を伝えたかったのでしたら、その作品はいさぎよく没になります。

 

追記
もちろん企画にも撮影にも完璧ということはありません。私も伝えたいことが不明瞭なまま撮影に臨んだこともありますし逆に感受性が高まらないままシナリオ通りに漫然と撮影をしてしまったこともあります。そうやって撮られた撮影後の素材を前にして伝えたい事が見つからずパソコンの前で頭を抱えたことも何度もあります。ただ、伝えたいことと伝えたい相手がくっきりと浮かび上がり、「なぜ」も心の中に実感としてある状態で撮影に臨み、さらに現場での感受性を解放してきらきらとした素材を撮影でき結果として抱きしめたくなるような珠玉のような素晴らしい作品を作ることができたこともあります。(こういうときは編集でもまさに神の手によって一つ一つの素材が用意されたていたかのように自然に完成像が浮かびそしてあっという間に編集が進みます。)そうした数少ない奇跡のような経験のエッセンスと、多くの失敗からの教訓をつまみとり文章にしているのがこれらの記事です。nobody is perfect (from Some Like It Hot) という言葉で僕は自分を励ましています。