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liberteenしゅんすけのブログ

自分の備忘録です。

職業クリエイターについて

この文章は推敲なしで書きます。
僕は14歳ぐらいの時にたぶんラジオのFENで聴いたジョーサトリアーニに憧れてギターを弾き始め、中高をギター漬けで過ごし大学ではバンドとクラシックギターサークルに多くの時間を費やしました。当時流行っていた洋楽のハードロックやギターオタク的な速弾き曲、スピッツミスチルやジュディアンドマリーなどの邦楽をかき鳴らしながら時々は作詞作曲にも挑戦しましたがことごとく自分の中から生まれるメロディも言葉も一つとしてないことを知り、みじめな気分になりながらもただ音を奏でることの気持ちよさを感じていました。

自分の中からこみあげるメッセージがないことにうっすらと劣等感のようなものを感じつつギターから生まれる音色の美しさやギターの造型の美しさに惚れ込みギターを弾き続けていましたが、やはり音楽とは自分の中からこみあげる情熱やメッセージを表現するための手段であって単に音が好きだとか演奏する行為そのものが好きだという気持ちはどこか歪で不完全なものなんではないかという思いが常につきまとっていたように思います。

そんな記憶をうっすらと持ちつつ僕は30歳のときから映像制作の会社を運営するようになりました。僕がやってきた映像制作の会社は主にメーカーさんの製品の販売促進や宣伝のための作品を手がける会社ですから、ことさらに「自分の内面から生まれる情熱やメッセージ」とは無縁というか、それは常にお客さまから預かるものであることを自覚しながら仕事をしてきました。メーカーのお客さまの担当者の製品に対する熱意やこだわりは人にもよりますが大抵の場合、半端無いものです。化粧水なら化粧水、シリアルならシリアル、プリンターならプリンターといった一つの製品をより良いものにしてより満足して使って頂けるように努力と工夫と議論を重ねて10年あるいは30年という人生の貴重な時間を特定のブランドに捧げる姿はまさに鋏や包丁を鍛金しつづける職人のような、ただひたすらひとつの点に向かって鍛錬が集約するような、すがすがしくも強い強い思いの凝縮を感じるものです。そういったものづくりに対する強い情熱をもったクライアントと仕事をし、彼らの言葉にならないブランドに込めた思いをひもとき、あらためてそれを言葉と映像で再構築し、店前であたかもクライアントの担当者の分身が製品に込めた思いを消費者に向かって熱心に語りかけるようなあるいは何も語らずとも静かにその製品への愛情の温もりを抱擁で伝えるような作品が作れたとき、僕の心はほんとうに幸せを感じ、クライアントの担当者さんから「私たちの思いを本当によくわかってくれたことがうれしいです」と言って頂けたときはあふれる涙をこらえるのがせいいっぱいでした。

ものづくりに魂を注いでいるクライアントとの仕事はかけがえなくありがたい幸せな時間であり自分もいっときでも相手と一緒にものづくりに関われた気持ちになりそして彼らの思いを表現にできたことに深い充実を感じました。ただ色々なクリエイターさんたちと仕事をしている中でいつでもどこか、職業クリエイターというのは何なんだろうと自問する気持ちが消えることはありませんでした。僕が十代のころにギターを弾いていたときに感じていたように、表現というのは自分の内なる情熱やメッセージをどうしても吐き出し爆発させるためにたどり着く手段なのであって、職業ミュージシャンや職業クリエイターというのは手段そのものを目的としているような歪さがあるのではないかという思いです。そんな思いに最初は分業とか役割分担といった言葉をあてはめ自分を納得させようとしていましたが最近になってようやく表現そのものを目的にするのはどういうことなのか、職業クリエイターとは何なのかということが分かりかけてきたように感じます。それは3つあります。

 

1つには職業クリエイターとはまさに歪な存在であり、同時に物にのみ全てを託す職人という存在もまた歪な存在であるということです。すべての人間は完全ではなく欠けている。それはものづくりを営むメーカーと職業クリエイターという関係性だけでなく、商社マンであろうと銀行員であろうとWEBプラットフォーマーであろうとコンサルタントであろうとメディア人であろうと公務員であろうと工事現場作業者であろうと政治家であろうとすべてあまねくです。欠けている人間という存在はその欠損の逆側に大きな尖ったベクトルがあり同時にその欠けこそがダイヤモンドのカットのようにその人格に輝きをもたらし、その不完全さを人同士の組み合わせで補いあっていくことでお互いを輝かせることができるのだと思っています。私が運営している日本情報流通という映像制作会社の存在理由は「不完全な人間、その輝きへの賛歌」ですがこれも私の中にあるこのような気持ちを言葉にしたものです。作曲家がいる、作詞家がいる、演奏家がいる、歌手がいる、メディアがあって聞き手がいる。多くの人が関わり合って人は人間になり歌は高らかに天に届くのではないかと思います。完全であろうとすることは人間を孤独にします。

2つには表現には美が備わるということです。なぜかは僕には全く分かりませんが、表現そのものには美が備わっていると感じます。真でも善でもないかもしれませんが丹念につくりあげられた表現にはたしかに美が備わります。それは映像や言葉にかぎらず、ボクサーが打つパンチには美が備わります。職人がただひたすらに鉄を打つさまには美が備わります。いかなるメッセージをも感じ取られない抽象画でもその赤の鮮やかさに美があることを感じます。丁寧に練り上げられた商品パッケージやピクトグラムにも美があります。もちろんその逆で今あげたあらゆるものに醜もあります。なぜ宗教や哲学で真善美が語られるのかも僕には分かりませんがそこに美という概念があり美に惹きつけられるのが人間であるなら、表現を磨き上げることで生まれる美という結晶を追求する気持ちもわかります。ダビデの彫刻のモチーフがダビデという設定であろうがなかろうが、ゴリアテに石を投げつける前という舞台設定であろうがなかろうが、もっと言えば作者が誰であろうが、本物であろうがレプリカであろうが、ただひたすらにそれは美しく見る人の足を止めるのです。表現にそなわる美に私もまた惹きつけられそれにのめり込んでしまった身です。

3つ目は表現が芸術を生むということです。表現はメッセージを届ける手段にすぎずメッセージが先にある、というのではなく、はじめに表現ありきということです。メッセージが先にありそのための表現として絵画や小説や音楽を選ぶという人は居るかもしれませんが今でこそあえて言ってしまえば、それは不純だと私は思います。人は表現に魅せられます。その中にある美とエネルギーに魅せられます。そして表現することに浸かります。そして、表現は、人間の内なるものをさらけ出します。人は表現することで自分が何者なのかを悟ります。自分のなかのおおきな黒い穴の正体は何であるのか。自分から溢れ出てくる温かいものの正体は何であるのか。自分を生かし呼吸をさせ心臓を鼓動させるものの正体は何であるのかを。アートとは人が表現という行為によって望むと望まざるにかかわらず己の奥底を徹底的にさらけ出さざるを得なくなった結果に残った残滓のようなものだと思います。それはそれで生々しくときに醜く、そして、美しいものです。

 

職業クリエイターにとって表現は他者との融合であり美の追求であり己との対峙です。それは岡本太郎の言う、爆発です。大好きな岡本太郎を引き合いに出してこの一連の「動画編集のやりかた」を終えます。