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liberteenしゅんすけのブログ

自分の備忘録です。

高い目標を持つこと

高い目標を持とう。と、よく言われます。それが良いことであると、あるいは良い人生を送るために必要なことであると、語られます。そして、高い目標を掲げそれに到達するための逆算思考や行動規範や考え方を語ったハウツーが世の中に多く広まっています。私も今の会社を自分で作って運営してきたのでそういった考え方には長い間触れ続けてきましたし、昔に多少付き合いのあったベンチャー界隈な人たちのあいだでは高い目標を掲げて達成することが言うまでもない大前提であるがごとく支配的な考え方でありました。まるで、高い目標を掲げてそれに向かうことをしない人間は劣等種であるか人間以下であるかと言わんばかりに。そして、そういった考え方はいわゆるベンチャー界隈なひとびとの間だけでなく大なり小なり広く日本人のあいだに敷衍しているのではないかと想像します。少年よ、大志を抱け、と。

 

この文章は、高い目標を持つことになじめないでいる人への文章です。こんな能力や資格が欲しいとか10年後どうなっていたいとか年収1000万円以上欲しいといった目標に、どうも心から実感が持てない。あるいはただ毎日を楽しく過ごして生きていたいだけではいけないのだろうかそんな自分は間違っているのだろうかと、自問してしまう。そんな人にささげる文章です。

 

核心を先に言います。高い目標を持つのは、人格が欠損しているからです。高い目標を持たなくてはいけないのは、今の自分に欠けがあり、今の自分のままではいられないという気持ちにせき立てられているからです。高い目標に向かって走り続けられるのは、その欠けが永遠に埋まらないものだからです。

欠けのことを私は欠損した人格と呼びますが、精神医学的に人格障害と言ってもいいし、文学的に歪(いびつ)な心と言ってもいいし、もっとセンチメンタルに言えば心の傷と言ってもいいし、究極的に大雑把に言えば個性と言っても良いです。しかしこの人格の欠損のことをハングリーさと呼ぶことは誤解を招くと思っています。欠損した人格はすべての人に共通して言えることではもちろんなく、その対極にあるのは円満な人格です。しかしハングリーは空腹という意味ですから、誰にでもその空腹感のようなものは備わっているという誤解を与えてしまいます。人格の欠損にももちろん程度問題はあり、個性で済ませられるものから明らかに病気つまり社会的生活を営めないレベルのものもありますが、アプリオリに欠損ありきなのではなく、円満という状態があったうえでの(便宜的に対極項として位置づけられるものとしての)欠損という状態があるということです。ちなみに私がいつも言っている人間存在そのものの不完全さと人格の欠損とはちょっと意味合いが違いますがその違いを詳説するのはここでは省きます。

欠損は人によりさまざまです。赤ん坊の頃に絶対的で無条件な愛の存在を知らずに育ったことから愛情への飢餓と愛情への不信が同居し承認欲求あるいは自己肥大欲求あたりが大きな欠損を作るケース。子供の頃に貧困から自由も楽しい少年時代も家族さえも破壊されたことから社会への復讐心と失われた過去を求める気持ちが深い欠損を刻み金銭的欲求に表出されるケース。権力に自我を踏み潰され続け自分の無力さを徹底的に呪い結果的に権力欲こそが自分を解放するという逆説的な心理構造が出来上がってしまうケース。(いちおう説得力を高めるために言っておきますがこれらは多少ぼやかしていますが僕が身近な何人かの経営者をじっと見つめてきた結果からの事例です。)

さてここで言いたいのは、自分の欠損に気付きそれを自覚したうえで行動している人間はある程度その欠損を埋める方向に行動できるのに対して、自分の欠損の正体(あるいはその存在すらも)を自覚していない人は、大抵の場合、その欠損を埋める行為ではなく逆の方向に代償行為を積み上げてしまうということです。愛情を求め会社が大きくなっても自分の中の愛の欠損は埋まりません。金を求めて会社が大きくなっても自分が奪われたものの欠損は埋まりません。権力を求めてもしかり。たとえば円満な人格を「◯」という形で描くとすれば、欠損した人格はパックマンのような形に始まり、その欠損への代償行為を逆側に積み上げていった結果、矢尻のような「>」という形になります。矢尻が尖っていけば行くほどその代償行為を求めるベクトルは強化され、その欠損はより一層先鋭化されていくように思っています。そして代償行為を重ねるほど自分の中の欠損が大きくなっていくこともあります。代償行為としての努力は永遠にその欠損を埋めないと書いたのはこういうことです。

さらにここで一番大事なのは、自分の欠損の正体を知らない、あるいは自分の人格が欠損していることを自覚していない人は、高い目標を設定してそれに向かうことを代償行為とは気付かず、建設的なことであると捉えてしまうということです。さらにそういった人間の多くは、その欠損から生まれるエネルギーを自分の長所であると勘違いしてしまうということです。自分の欠損の正体に気づいていないのですから、とりあえず自分の中の「代償エネルギー」とでも呼ぶべきものをどこかに発散させずにはいられません。それが高い目標を設定させる気持ちを突き動かすのでしょう。さらに目標に突き進むエネルギーが出てくる自分ってステキだな、と勘違いすることもあるでしょう。それらを責めることは僕にはできません。けっきょくは自分の中の欠損の正体に気づけないことは永遠に目標を達成できないということなのであり、そして欠損を抱えたまま生きることはとても、とても辛いものであり、代償行為を続けながらも心の穴が埋まらないことはとても悲劇的で虚しい営みですからその心の痛みをなにかにすり替えてポジティブなラベルを貼り覆い隠すこともやむを得ないのかもしれません。なにしろそして大抵の場合欠損の正体は過去という、永遠にどうやっても変えることができない永遠の過去の中にあるものですから。そして世の中には金銭的成功や社会的成功といった、一見魅力的な誰にとってもわかりやすい到達ステージがあり、能力とお金と社会的地位と権力のセットメニューは、どんな自分の中の飢餓感や苦悩も解消させてくれる魔法の薬のように機能しそうな輝きを放っていますから、ついそれに飛びついてしまうのを責めることも、本当に誰にも出来ないと思います。

欠損を抱え、それに気づかず、高い目標を設定し、代償行為を繰り返すという行為そのものは誰にとっても単に極めてパーソナルなものであり、生き方の一つのスタイルにすぎないのかもしれず、僕がどうこう言うことはありません。ただ黙って自分の過去を見つめ、そういう相手のことを見つめるだけです。

 

しかし、私がここで確信をもって主張するのは、欠損した人格の人間が円満な人格の人間を巻き添えにしたり貶めたりすることは、間違いだということです。意図的でなくても、結果的にであってもです。巻き添えにしたり貶めたりしてしまうことには大きく二通りあると思っていて、一つは求めるエネルギーを与えるエネルギーであると偽ることです。会社で言えば単に売上を上げたい、利益を上げたい、社員を増やしたい、しゃれたオフィスにしたい、そして上場したい、そういった我欲が、「求めるエネルギー」です。「与えるエネルギー」とは社会のため、世界のため、お客様のため、仲間のため、社員のため、回りの役に立ちたいというエネルギーです。いつの頃からか会社というのは理念というものを持たなくてはいけない、ビジョナリーでなくてはいけない、という考えが定説になっていて、僕の知るほとんどのベンチャー企業も理念というやつを高らかに掲げていますが、私はこの理念というやつが曲者だと思っています。理念なんて無くても、自分の強みを活かして良いサービスを提供することを通じてリッチになりたい、人に自慢できる会社にしたい、それだけで良いじゃないかと思います。(もちろん、本当に本当に本当に本当の気持ちからの理念を掲げられているのであれば、それは素晴らしいことだと思います。しかし私の知る限りそういう理念を持てている社長は何十人と知り合ってきた中で二人くらいしか知りません。)本当は理念がないのに、自分の人格の欠損を埋めるための代償行為なだけなのに、それに理念という偽りの着ぐるみを着せてしまう。その着ぐるみのパンダが楽しく踊ろうよ!と言うとダンス好きな子が集まってくる。でも着ぐるみの中の子は寂しかっただけでありダンスは好きではありませんから、ダンスしてても楽しくないんですね。せっかく集まった回りの子もダンスしていて、なんか楽しくない。これが偽ることによって円満な人格の人間を巻き添えにしてしまうことです。

もう一つは、そう、高い目標を持つことを押し付けることです。そういう人は、非常に皮肉的ですが、人格が円満であるということを、まるで何かが欠損しているかのように評します。将来の目標が「ない」、ハングリーさが「ない」、なりたい自分が「ない」、生活を高める覇気が「ない」、など、など。そして自分が日々高い目標に向かって必死に頑張っていることをさも素晴らしいことであるかのように喧伝する。その体から流れ出ている液体はたんに胸の中の傷口から延々と流れ続けている血の涙にすぎないのに、それを心地よい汗のしずくだと思いこんで、語るのです。遠慮なく言えばこれは極めて悪質な洗脳でありゾンビが人間に噛み付くような行為です。私は、想像ですが、このような洗脳行為を受けた結果、偽性人格欠損とも言える行動スタイルを取ってしまっている(本来は円満な人格を持っていながらも)人が世の中には一定数いるんじゃないかと思っています。円満であることをハングリーでないと貶められ、高い目標に向かわない自分が不完全であると思い込まされ、いつしかその「ありもしない」欠損を埋めるために目標に向かって努力しはじめる。この問題は、そのような偽性の欠損には代償エネルギーを生み出す穴はないわけですから、その努力がもちろん続かないことに帰結します。(続ける必要もないのですから。もともと円満なのですから。)そうすると、努力が続かなかったこと、目標が達成できなかったことを、自分の失敗として捉え、自己卑下や自己否定が生まれてしまうことに繋がります。もしかしたらこういうことが続くと、本来は偽性の欠損であったものが、本当の欠損になってしまうかもしれません。あるいは生きるエネルギーを萎縮させてしまうかもしれません。これが、円満な人格の人間を貶め、陥れ(おとしいれ)てしまうことです。

欠損した人格を持った人間の営みもまたパーソナルなものでありその人だけのものであると書きましたが、当然、円満な人格を持った人間の営みも誰からも批判され毀損されるものではありません。ましてや、円満な人格というのは、すばらしいものなのですから。自分を愛することができていて、無条件な愛の存在を心の奥底で理解し実感できていて、他者からの愛を感じ取ることができ、そして回りの人に愛を与えることができる。社会を奪う対象か奪われる対象かだけの存在として捉えることをせず、与えられ、与える対象として捉え、足並みをそろえて歩むことができる。恨み、復讐、憎しみ、そういったもので人を傷つける事をせず、感謝と共感と慈悲をもって人をあたためることができる。円満な人格は、間違いなく素晴らしいことです。ただ今の自分があることに感謝でき、親と社会と隣人からの愛があって今の自分があることに感謝し、その感謝を周囲の人への愛情に変えられ、日々幸せな笑顔で過ごしていること。これは、目標がないのではなく、「すでにそこに達しているだけ」、なのです。あなたのいる場所は、とうとい、素晴らしい、高い高い極みであり、欠損した人格の人間がそれに気づかずやみくもに追い続けている目標の、さらに上にある高み、なのです。

そして円満な人格をもった人間が抱く目標は、高いとか低いとかで表されるものでなく、感謝と愛と貢献の心に満ち、ずっと続き、人を幸せにするものなのだと思います。それは、いまのままで、その気持ちを肯定して、共感し合える人と育み、自然にそれを育てていけばよいものなのだと思います。それが、いくらささやかなものだと自分にとっては感じられるものだとしても、世界は、そのささやかなものによって救われ、成り立っているのだと思います。

(円満な人格の経営者と出会うことはほんとうにまれですが、そういう人と出会えるとほんとうに偉大な宗教者と出会ったように心が洗われます。逆にいえば殆どの経営者は人格が欠損していますが、まぁ、それはそれで味もあり、個性もあるものです。)

 

 

 

この文章は、高い目標を持つことを押し付け、円満な人格を貶める考え方への、私の全身全霊をもってのアンチテーゼです。同時に、私の告解と改悛そして感謝の言でもあります。私も、大きく欠損した側の人間であったからです。私は自分の中にあった欠損とその正体にようやく気付きいま救いへの一歩を歩みだすことができましたが私を救ってくれたのは円満な人格のなかにある真実でした。