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liberteenしゅんすけのブログ

自分の備忘録です。

メディアは色眼鏡

今回はメディアにとっての成功とは何かを考察します。

 

一般的にビジネスにおける成功とは、規模が大きい方が良い、ユーザー(お客)の数は多い方が良い、売上高は大きい方が良いという価値観を大前提に語られます。そして成功の尺度としてはユーザー何万人、売上高何億円、あるいは上場、というようにキリ良く規模感を感じる特定の到達点が設定されます。しかしメディアにとって難しいのはメディアがこのような規模イコール成功という価値観とは本質的に異なる性質を土台として持っているという点です。なのでメディアを立ち上げ運営するにあたってはその点を明確に自覚しないと成功には永遠に辿り着けないことになります。僕はこれまで2〜3回インターネットのメディアを立ち上げ運営を試みたりもしましたが(まあ失敗しましたが)、それを含めてささやかな人生経験やマーケティングで学んだケーススタディをもとにメディアの本質とメディアにおける成功について考察してみます。

 

メディアがなぜ規模イコール成功という価値観とは相反する本質を持っているか。それを端的にあらわす言葉が、メディアとは色眼鏡であるという言葉です。メディアとは何かを辞書的定義で言うと、世の中の情報を受け手に対して届ける媒介、仲介役です。ではメディアは世の中のどんな情報をどのように誰に届けるものでしょうか。世の中のありとあらゆる情報を、できるかぎりありのままに、ありとあらゆる受け手に対して届けるものでしょうか。違いますよね、むしろ真逆であって、世の中のありとあらゆる情報ではなく、世の中にあふれる出来事を選別して特定の情報を特定の目線で抽出するのがメディアです。ありのままの姿ではなく、取材者や編集者の目線で出来事からその人なりの情報価値を抽出するのがメディアです。そしてありとあらゆる受け手ではなく、特定の価値観を持った受け手に対してのみ価値を届けるのがメディアです。

いっぽう、報道は公平でなければならないとか、メディアは偏ってはいけないといった言説がよく語られますが、それは一つ一つのメディア単体がそうあるべきなのではなく、様々なメディア群を俯瞰的に見た時にその総体が多様性のもとに客観性や公平性をもっていなければいけないという考えであり、それはメディアを規制する権力の側が総体としてのメディア群に対して圧力による偏りを与えてはいけないという意味です。ですので一つ一つのメディアは右寄りであったり左寄りであったりナンセンスであったり高尚であったりポピュリズムであったりアカデミズムであったり色々な色に染まっているものです。そしてその多様性が万遍なく過不足なく行き渡っていたとき、それを俯瞰した時に「(総体としての)メディア(群)とは、ありとあらゆる情報をありとあらゆる人々に届けるもの」として、総体として機能しているということです。

たとえば、ファッション雑誌で言えば、女性誌と男性誌があり、女性誌で言えば世代によって細かく細分化され、さらにキラキラ系だったり青文字系だったりナチュラル系だったり様々な系統に分かれます。全世代の全タイプの女子に訴求しようとして分厚い百科事典みたいなファッション誌を発刊しても誰も買いません。たとえば最近では雑誌よりネットにその主戦場が移ったグルメガイドでも、コスパにこだわる人が集まるサイト、接待用の店を探すためのガイド、デート向きのガイドなど、目的別にある程度明確にサイトのカラーが区別されています。(とはいえサイトの個性を打ち出せず苦戦しているグルメガイドのサイトも幾つもあり、そういったサイトこそが規模を求めることでメディアの本質を見失っている反面教師です。)たとえば全国紙の新聞で言っても、限られた紙面の中でどのようなニュースをとりあげてどのようなニュースを取り上げないか、あるいはひとつの出来事に対してどのようにそれを論じるかという点で政治的態度がそれぞれの紙面に色濃く反映されており、読者は意識的にどの新聞を購読するかを選択したり、或いは無自覚的にそれを購読していても特定の政治的態度に自然と寄っていったりします。(新聞や、あとテレビもですが、特定の政治的態度や思想に偏っていず無色透明であるかのように一見みえるのは、テレビや新聞が大手数社によって寡占的に運営され、受け手の側に選択の余地がほぼないことによって生まれた特異な状況であり、それは単に戦後の規制経済の仕組みと法律によって作られた不自然で不健全な状況にすぎず、あたかもありとあらゆる情報をありとあらゆる人々に届けているように振る舞っているだけです。なので現在のテレビや新聞の表面的なありかたからメディアを論じるのはその本質を見失うことになる表層的で危険な見方です。)

本質的にメディアは偏っていて、偏っているからこそ受け手にとって価値があるものなのです。つまり「現実世界を特定の価値観によって切り取ること」こそがメディアなのであり、特定の価値観とは言い換えれば偏見であり、色眼鏡を通して世界を見るということです。

たとえば日本を特定の国に紹介するガイドブックを編纂するとします。現時点でその国の人間が沢山訪れている場所を紹介しよう、という考えもひとつです。むしろ日本人好みされるような、ちょっとマニアックな観光スポットを紹介するというのもひとつの切り口です。日本の伝統的な文化に価値を感じ、世界に発信するに足ると考え、そこにフォーカスするのもひとつです。あるいはポップカルチャーに日本の将来を感じ、それを発信するのが責務だと考えるのもひとつ。自然や四季に何とも言えない風情を感じ、そういった形のないものを愛でるのもひとつ。あるいは日本を巨大な居酒屋と捉え、コンビニで酒を買って呑みながら街なかを練り歩くことこそ日本を最高に楽しむやり方だと考えるのも極端ですがひとつのメディアとしての尖った切り口かもしれません。

お分かりのようにメディアを定義する時にその切り口には正解がなく、根本的にはどんな切り口で日本を切り取っても誰もそれを咎める人はいません、それが捏造ではなく日本の中の何かしらの場所や出来事や事実を抽出したものであるかぎりは。ただし、メディアをビジネスと捉えた時には、2つの要素に目を向ける必要が出てきます。それは、「受け手の数」と、「色眼鏡の主体」です。

受け手の数とはその特定の切り口による情報を求める人の数ということで、たしかにコンビニはしご酒の情報を求める人の数より、人気の観光スポット上位30箇所の情報を求める人の数のほうが多いでしょう。ある程度はマーケティング的アプローチで、受け手の数が多い切り口はどういう切り口であるかを見つけることもできるでしょう。ただ、受け手の数が多いつまり間口の広い切り口を狙うと、扱うべき情報が広範になることで必要な運営体力が比例して大きくなると同時に、規模ビジネスを狙ってメディアを回す輩(やから)と競合することも増えてきますから、相応の覚悟と体力を持って取り組む必要が出てきます。しかし、そういったリソース配分の問題や競争優位性の問題は些細なことにすぎず、一般的なプロダクトマーケティングと根本的に異なる大きな問題は単一のメディアで段階的に受け手の層自体を拡大していくことはできないということです。一つのメディアは一つの受け手クラスタに対して訴求します。別の受け手に訴求するためには別のメディアを立ち上げる必要があります。巨大な一つのメディアに見えても実は複数のチャンネルや複数のサイトが個別に運営されているメディア複合体の形を取っています。(アメリカのテレビチャンネルのマーケティングや視聴者クラスタとのコミュニケーションの仕方、ユーザー層を拡大しようとして失敗して元のスタイルに戻ったといった例えばディスカバリーチャンネルケーススタディなどは非常に含蓄に富んでいます。日本においても雑誌メディアが特定の年代にフォーカスする雑誌のタイプと特定の世代が年をとるのにつれてそのまま雑誌側も年を取っていくというタイプの二つに大別されるといった話も面白いスタディ対象です。つまりはメディアと受け手とは一対のもの、あるいは「メディア+受け手=メディア」と定義されるものなのかもしれません。)このようにメディアは受け手について規模を狙うことが難しく、規模の拡大を狙うことがほぼ不可能であるという側面を持ちます。(ほぼと書いたのは、規模の拡大は受け手の側で自然発生的にトレンドが拡大していくか、あるいは人口が増加することでそれを見込める可能性はありますが。)

もう一つのメディアに特有の要素としてあげた「色眼鏡の主体」について説明します。メディアが特定の価値観に基づき幾多の出来事から特定の出来事を取り上げ、それについて特定の目線で語るとき、その価値観や目線の主体は、メディアの運営者です。ディレクターであったり編集者であったりデスクであったり編集長であったりマネージャーであったりとよばれる存在です。ひとつのメディアがもつ価値観は、まずは属人的な価値観であり、それがメディアという場に投影されることを通じてチームの間で共有され(もちろん受け手に対しても共有され)、チームの方針としてときに言語化され、そしてそれがあらためて一人一人のディレクターやデスクや記者やレポーターという個人によって咀嚼され、あらためて属人化された価値観です。いくら明文化された方針でも、ひとつひとつの出来事に直面してそれを取捨選択して特定の切り口で語る時、方針だけでは判断できず、最終的にはやはり一人一人の運営者の中に咀嚼されて属人化された価値観が投影されます。メディアにとって命とも言える、価値観、つまり切り口というエッセンスは、このように属人的でしかありえません。属人的なものから切り出して外在化させることはできません。色眼鏡の主体は、メディアの運営者たちの心の中にこそ存在しているのです。そしてそれが意味するのは、受け手が多いからこの切り口で行ったほうがいいといったマーケティング的な考え方から帰納的に規定された価値観をメディアの運営チームに押し付けても、メディアは機能しないということです。わかりやすい例で言えば、外国人向けの東京グルメガイドを立ち上げた時に、外国人に対して寿司が一番人気だったとします。でも編集部の中に寿司が好きな人が一人もいなかった。それどころか生魚を食べられない人ばかり。こんな状態で寿司特集を組んだとして、そのガイドは面白いでしょうか。あるいは、連載企画として半年続ける意欲が、その編集チームのメンバーに生まれるでしょうか。メディアは結局 自分には嘘はつけません。

 

むろんあくまで規模のビジネスとしてメディアを捉えた場合、マーケティング的に規模を見込めるクラスタの価値観と嗜好を把握し、その価値観で情報を発信できる編集チームを雇用・編成し、さらにその営みを繰り返すことで複合的メディアを形成し規模拡大を果たし、最後には総合メディアとしてのブランディングも図るといったこともできなくはないでしょう。ただ、自分が発信者つまり1つのメディアの運営者としての視点に立った時、メディアを成功させることと規模を追うことの間に本質的乖離があることは多くの人が実感していることだと思います。

メディアの運営者にとってメディアの成功とは何でしょう。それは、自分の中にある(あるいはチームで共有されている)価値観をぶれさせず、その刀でまっすぐに容赦なく世界を斬りつづけ、ぶれないまっすぐな断面を描くことです。決してぶれさせないことです。ぶれさせてしまうのは自分の中の価値観に嘘をつくことであり、そして受け手にも嘘をつくことです。ですからいつでも変わらず自分の中の価値観を信じて、同じ価値観を持ち自分の情報を心待ちにしてくれている受け手の存在を信じて、同じ価値観で世界を斬り続けることです。その結果得られるのは同じ価値観を共有した一人の受け手とつながったという実感でしょう。一人と書きましたがその数はもちろん何千人、何万人になっていることでしょうが、数は問題ではなく、大事なのは一人一人の、血の通った人間と同じ価値観を共有できているという実感です。そして結果的にそのようなメディアは、発信者と受け手だけでなく、受け手同士のあいだにも共感と連帯をもたらします。ときには精神的支柱にもなることでしょう。良いメディアとはそういうものです。

 

そして最後にはメディアの運営を通じて自分の価値観の本質を知り、世界がどういうものであるかを一層知ることができればそれも深い幸せをもたらしてくれるかもしれません、教える人が学ぶ人よりも一層多くのことを学ぶように。たとえば日本を紹介するガイドブックで言えば、それを運営し続けることで、自分にとって日本とは何なのかという問いに対する深い答えに出会えるかもしれません。もしかしたら日本をいっそう深く愛せるのかも、しれません。