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liberteenしゅんすけのブログ

自分の備忘録です。

お祓い

ノンジャンル

つまらない、他愛ない話です。

今年の1月、初詣の人混みも収まりかけたころ、職場の氏神様の神社でお祓いを受けてきました。発端は僕がお世話になっていて頼りにしている知人から、新舘くんお祓いを受けるといいよ、気持ちもすっきりするよ、というアドバイスを貰ったことでしたが、なんとなく乗り気になったこともありお祓いを受けることにしました。

その日は静かで、神社にいた人は僕と神主さんだけという具合で、とても静かな朝でした。奥の間に通されて正座をし、神主さんがかしこみかしこみと祝詞(のりと)を詠んでくれているのを聞いていたら僕は知らないうちに涙がぼろぼろ出ていました。神主さんにしてみたら、単にお祓いを受けているだけなのにこんなにぼろぼろ泣くとは、よっぽど嫌なことでもあったのかと勘ぐったかもしれません。とくだん辛いことがあったわけではないのですが(まあ、なんというか、あるにはありましたが、それとは無関係に、)祝詞を聞いているとなんだか熱いものがこみ上げてきてしまったのでした。

なぜお祓いを受けただけでだあだあと泣きはらしたかというと、それは神主さんが、なんの利害関係もない新舘俊輔という見ず知らずの赤の他人のために、わざわざ「神様この人をどうか幸せにしてやってくださいな」とお願いをしてくれたということになぜか胸を打たれてしまったからなんですね。赤の他人に自分の幸せを願ってもらえることなんてなかなか無いじゃないですか。しかも僕はひねくれ者なのかもしれませんが利害が密接に関係しているたとえば家族のような人間に幸せになってねと言われてもどこかピンとしないもので、それよりも(繰り返しますが)なんの利害関係もない赤の他人から、神様どうかこの人を幸せにしてやってくださいと言ってもらえると、そのことがいかにありがたいか驚きとともに痛感してしまったという次第です。

神が存在するかどうかは分かりませんが神社の機能あるいは人々が神社に行ってお参りをする機能って、人が誰かのために祈る場としての機能であり、人が誰かのために祈るときその祈りは人→神→人というプロセスではなく、じつは人→人という形で伝わるのではないかなとも思いました。

 

今回お祓いをうけてだあだあ泣いたという話をしましたが実は大した話ではなく、ただたんに僕が愛着障害であり愛と受容を常に渇望していながらも同時に愛情をどうしても信じることができない、さらに自分自身を愛することもできないというぐにゃぐにゃに曲がった歪(いびつ)な人格であるがゆえに生じた些細な出来事の描写にすぎません。

ただ、見ず知らずの人のために幸せを祈る仕事って(それでお金を貰うかどうかは置いといて)とてもいいな、と思いました。僕もなんかそういう仕事できないかな。