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liberteenしゅんすけのブログ

自分の備忘録です。

雑談

唐突ですが僕は宇多田ヒカルが好きです。好きといっても歌が好きなわけではあまりありません。聞いているとむしろ辛くなるからです。好きというより分かりすぎると言った方が良いかもしれません。身につまされるという言葉のほうが合っているのかもしれません。

 

という具合に書き始めた記事ですが、着地点は全く見えません。いま宇多田ヒカルの"Goodbye Happiness"を聞きながら、へろへろと筆を進めます。

 

なぜ宇多田ヒカルのことを書き始めたかというと、それはGoodbye Happinessを久しぶりに聞いて、PVを見て、やっぱりなんじゃこりゃーというか、この人も闇が深いというか、ずいぶん面倒くさいものを多分小さい頃から抱えてずっと抱えて抱え続けて育ってきたんだろうなと改めて思ったからでした。Fantomeというアルバムの曲をいくつか聞いて、それらがお母さんである藤圭子さんの自死を受け止め乗り越えようとする心から生まれたらしいと記事で読んで、それもああそのとおりだなと極々しっくりと受け止めた気がしました。

 

自分の人生をやり直したかったり。特定の時点に自分を退行させて何かを繰り返してみたり。別れに対して、おそらくは別れのその時には静かに黙ってそうか、わかったよ、って言って静かに家に帰って静かに布団で寝て、でもしばらくして、ずっとしばらくしたあとに、どんなに長い時間が経っても、さようなら、さようなら、さようなら、って、そのときのことを何度も反芻してみたりして、結局はなにも自分の中で消化も昇華もできてなんていなかったり、共感してほしいような、共感なんてしてほしくないような、全力で突っ走って誰の顔も見えないところまで走って逃げて誰かと比較されたり優劣を付けられたりできない領域まで走って、あるいは誰かのために自分を演じなくてもいいくらいの遠くまで心臓が破裂するまで突っ走って、でも、そのときに視界にだれもいない広い広い草いきれのする高台まで来て、それでもやっぱりうしろを、ふりかえっちゃうんだ。なんなんだこれは。

 

宇多田ヒカルの歌は胸を締め付ける。それはなぜだろう。ちょー単純に言えば本人が一番胸を締め付けられてんだろうなーって思う。

 

人間には誰にでも多分ひとつの人生をまっとうに楽しく生きるためのエネルギーがだいたい大なり小なり備わっていて、豆の中には豆から芽を生やし根を生やし双葉を開くまでのエネルギーが大体備わっているように、人間の生命力というエネルギーは大体同じくらい人には備わっているんじゃないかなと感じています。そのときにそのエネルギーがのびのびと発露する場合もあるし、生えたと思ったらソッコー天井がガチガチに行く手を遮ったりしていてにっちもさっちもいかない状態に晒されるという場合もあるのだと思います。ことさら出口がない、行き場がない、それは外的要因であったりもするし、人間というのは不思議なもので自分自身に枷を掛け幾重もの鎖と鎧で自分を縛ってしまうこともあり、それによりがんじがらめになると内圧が高まり、ホースの先をぎゅっとつまむと水が勢い良くブシャー!!とほとばしるように、言葉のとおりほとばしって、そのほとばしった先に虹がかかるということがあるのかなと思います。でも同時にそんな心が押し込められ歪に固められた結果にほとばしる奔流のようなエネルギーが産み出されたとしても、心はそれを在り処とはせず、やっぱり円満な人格を求めるのだと思います。もう歌なんて歌うことなく円満で圧がかからず静かなアルカイックスマイルを宿すことができたら、そんなあたりまえのことがきっとできたらと希求する思いが彼女からは昔からビンビンに感じ取れて、勝手な言い分だけど、見ているぼくがつかれてしまうくらいでいた。

 

とかなんとかいいつつきっとこの記事は宇多田ヒカルの歌を聞いて自分を投影してるだけだってことに気づいたからもうやめます。そう、GoodbyeはGoodbyeだけどHappinessはもういらないけど僕の中には僕自身がいるしきっとおそらく彼女もそうなんだろうから万事OK。

 

ウミウシに癒やされたからなんかこんなテキトウな文章でもテキトウにブログします。