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接点

思えばこのブログという手段は、自分を見つめて自分を知るための手段でもあるのだけど、これを読んでくれている人(がいてくれるなら)とのただ唯一の接点であることに気付きました。接点、という言葉のとおり、それはシャープペンシルの芯の先ほどの小さな小さな点でしかなくて、その小さな小さな点を通じてこつこつと文字を繋げ続けることでどうにか小さな点でさえもつながっていられたら嬉しいと、祈るような気持ちであったりもします。

同時に、人と人とのつながりにおいて、大なり小なり身近な人でも遠くの人でも人と人と言うのはいくつもの点と点どうしでつながり合っているような関係なのかもしれないと感じます。友人、同僚、上司、部下、近所の顔見知り、好きなタレント、そして家族や大好きな人であっても。(近い人ほど、点の数が多いようには思うのだけど。)このように考えだすと、人間同士が線や面で形作られた連続性のある人格をすりあわせて接触してつながり合っているというイメージには違和感があって。むしろ考えれば考えるほど、人と人とは点と点がネットワークのようにつながりあっている集合体であって、その関わりの中から結果として己の人格や自己みたいなものが虚像として浮かび上がってくるのではないか、人間とはその関わり合いにおいてのみ存在しているのではないかという考えにたどり着いていくようです。

絵にすると、こういう感じです。

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そして、人とのつながりに限らず人を含む外界とのつながりによって人は自分を定義する、或いは自分という統合された実体が存在していると自覚あるいは錯覚できるのだと思い、同時に、その人や外界との関わり方に応じて人は容易に自らの定義やその在り方を変えていく、あるいは自然と気づかぬうちに変わっているような生き物なんだろうな、とも思います。

そういう意味で言うとこの僕もいまこうして文章を書いている時間だけでなく、窓の外を眺めながら煙草を喫ったり、道を歩いて水溜りをよけたり、コンビニでハイボールを買って店員にパスモでお願いしますって言ったり、ポルノビデオを見たり、爪を噛む昔の癖をしそうになってやめたり、眠くなったり、ゆで卵の殻をむいたり、線香に火を付けたり、仕事の友だちにメールを書いたり、ボクシングジムで先生と会話したり、サンドバッグ叩いたり、ランしたり、Katy Perry聞いたり、The Chainsmokers聞いたり、桜の写真なんて一枚も撮らないくせにパンジーの写真撮ったり、そういう一つ一つの行動とか世界との関わり方が自分を形作っている・・・というより自分そのものであって、形はなく、常に形を変えながら、生きているのだなあと思います。昔のえらい人はそれを色即是空と言ったのかもしれませんが僕が般若心経を理解しているとは到底思えないので、えらい人のえらい言葉を勝手に借りてきてあてはめてみただけのことです。

 

人はそのように誰も彼も形がなく、つねに姿を変えていくというより本当は姿も形も定まった形のものが無いのが実は本当なのだと思うし、自分自身にこそそのことを強く実感するのだけど、同時に、周りの人に対しては、変わらないこと、一つの姿であり続けていること、そして約束が約束のままで守られていることを、つい、望んでしまう。これは何なのだろう。

それは一方的で自分を棚に上げた勝手な願いにすぎないことは頭では分かっているのだけど、人は、変わること、変わり続けること、そして最後にはいろいろなものや人との接点がほぐれるように一つ一つ消えていき、実体も形も儚く霧散し、もとの無に静かに帰っていくこと、そういったことを魂の底では分かってしまっているから、だからこそ形のあるものと、約束とに、祈りをささげてしまうのかもしれない。どうかそれがそのままでありますようにと。

 

とりあえずそんなふうに思うと一つ一つの接点の点が、ありがたく、自分とつながっている点の一つ一つに感謝する気持ちになり、そう感じられることがありがたいです。そしてその先の、同じく変わり続けている、同じく色即是空であるあなたが時間の流れと同じ速さでゆっくりと変わり続けることも、静かにただ静かに受け入れようという気持ちを、少しずつ、僕も受け入れていくのでしょう。

そしてそうすると最後には、そのぼくのなかの空(くう)の中に、命あるかぎりきっと変わらないものがあることに、あらためてまた気づくのです。