読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

liberteenしゅんすけのブログ

自分の備忘録です。

夢、未来

僕らしくないな、って自分で思ってることのひとつに、今では占いを信じているってことがあります。占いなら何でも信じるかというと、そういうわけではなく、星座占い(の特定の占い師のもの)と干支、干支に絡んだ四柱推命やバイオリズムとかに限るけど。 

 

僕は昔は子供の頃から星座占いや星占いなど何でもかんでも100%嘘だと思っていて、その根拠としては、自分の行動や思考が自分以外のものによって規定されるなんてありえない、という考えを多分持っていたからだと思います。

挙げ句の果てには大学受験のときに親が買ってきた合格祈願のお守りですら「要らないです」と言って突き返したほどで、これは今では親には悪いと思っているけど、理屈で言えば試験問題でとにかく正解点を取るのがとても単純な受験の本質なのに、仏やら神やらが関与する余地は無い、ましてやよくわからないお札を布でくるんだものを持っていることがなぜテストで点を取れることにつながるのか分からない、という理屈でしたが、実際のところは極端なまでに他人に頼れない、他人を信じられないという単なる愛着障害の症状が発露していただけのことだったのでしょう。あるいは大学受験に受かったという成功をすべて己の努力の成果だと証明したく、その根拠を濁らせる要素はすべて排除したかったのかもしれません。これも青臭い唾棄すべき屁理屈ですけどね。

閑話休題、お守りの話は置いておいても、占いの類はだいたい眉に唾しながら聞き流し、人間の類型を4つに分けれるわけないじゃん(血液型)、あるいは同じ年に生まれた人がみんな同じ性格なわけないでしょ(干支)などと思い続けてきたのですが、人間に自由意志は存在するのかという論争になぞらえて言えば、僕は自由意志"ある派"だったということなのかもしれません。でもおそらく本当は、自分が生きていることや行動は他ならぬ自分自身の自由意志から生まれるものであるべきだ、そうであってほしいと願う気持ちは、すべての行動をあまねく遍く「周囲の人間から求められる期待される自分を演じる」という(これも同じく愛着障害に依拠する)行動回路によって行動してきた若き日の新舘俊輔という人間の中で無意識に抑圧され続けてきた自我から知らず知らずに生まれてきた叫びのようなものだったのだろうなと今では思っています。

 

人間という存在は何類型に分けることができるのか、分かりませんが、仮に血液型と干支と星座と男女の要素で分けるとすると、4×12×12×2=1152通りですから、1000タイプ以上もあれば、大体の人間は分類できちゃってもおかしくないよね、とも思えるものです。

また、とくに30代のころは何かよくわからない自分の内的な衝動にせき立てられてがむしゃらに日々命懸けで全力を超えて仕事をしてきましたが、自分の力の限界あるいはそれを超えたレベルで仕事に取り組めば取り組むほど、人間一人の努力や踏ん張りだけではどうにもならない、風向きや運や不思議なめぐり合わせや偶然といった、人間ではどうにもならないものにものごとの結果や成否の殆どが左右されているということに気付かされました。世の中には人間の力ではどうにもならないものが厳然として存在し、(それに支配されているとまでは思わないけど)その何かが充満している世界の中で一緒に生きているのだろうなということを、なんとなくながら感じるようになりました。

そんなときに友人から聞かされた干支の話(ぼくは寅年、八白土星)や、星座の話(ぼくは射手座)に基づく大きなうねりみたいなものを聞かされたとき、僕がそのとき感じていたうねり感としっくりくるものを感じ、うまく言語化してくれたような気持ちを感じ、そこから、いくつかの占いに耳を傾けてみることも、目には見えず普段は感じ取れないものを感じとるためのヒントみたいなものかもなと思うようになりました。

 

 

前置きが長くなりました。

僕が時々参考にしている占星術師が毎週発行している、今週(4月10日〜16日)の射手座の占いに、こういう文章がありました。

  

貴方の「夢」や「未来」が

明るい光に照らされています。

その光のお陰で、今貴方が「夢」や「未来」と

どんな距離に置かれているのかが、わかります。

「夢」や「未来」に背を向けている人や

一時的に別の方向に向かっている人も、

今週はふと、そちらをふり向くことになるかもしれません。

「ああ、そこにあったのか」と

待っていてくれる夢と、アイコンタクトが取れるかもしれません。

 

 月曜にこれを読んだ時は、

ふ〜〜〜〜〜ん
夢とか未来か。
俺にとって、夢とか未来って、いま、なんだろう?

なんていう疑問をとりあえず自分に対して投げかけて、なんとなくその疑問を頭のなかで持て余しつつ転がして、数日を過ごしました。

 

楽観的な物の見方だったら「あ!これがぼくの夢だったんだ、やっぱり」とか「俺、未来の夢を見つけた!」みたいなものが見つかるんだったらいいな、って期待しちゃうんだけど、僕の場合はどうやらそうではなかったみたいです。

 

 

僕は年に数回、自分の今置かれている状況や自分が今思っていることや自分をとりまくビジネスの中長期的な展望などをパワーポイント的な資料に落とし込んで客観化することをルーティン的にやり続けているのだけど、昨日たまたまパソコンに入っている資料を整理していたときに、なぜか過去に書いたその資料がぱっと目にとまり、つい開いてしまいました。

去年の今頃に書いていたその当時の資料のとあるページにはこう書いてありました。

夢→◯◯◯(※去年やっていた、とある事業の名前が入ります)

社員のため→日本情報流通

趣味・道楽→コンサル

 

そっか、夢、か。あんときゃこれが俺の夢だったんだな。

 

なんてことを思い出しつつ、そしたら唐突に、今週の占いのことを思い出して、同時に僕の中にある思いが、言葉が生まれました。

 

夢は、いらない。

未来は、いらない。

 

って。夢が無いのとはちょっと違うし、未来が無いのともちょっと違う。夢や未来がいまこの手の中にあるというのとも、もちろん違う。でもとても自然に、ネガティブな意味合いを一切含まず、こう感じる気持ちが胸の中にあることに気づきました。 

この気持がどういうものなのか、自分で見つめてそれを説明できるようになるのにもう少し時間がかかりそうだから、いったんこの記事をアップして、もう一回自分と対話をしてみる。